激辛地獄唐辛子
​​​​​​​ストーリー

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激辛地獄唐辛子物語

激辛地獄唐辛子は、
どこから来た?

古き四国の地には、「お接待(おもてなし)」という風習があります。
全国から来られるお遍路さんのために、宿を貸したり、食べ物を提供したりするものです。(もちろん無料です、現在ではあまり無いとおもいますが・・・)
当時は命がけで八十八か所を巡拝していたそうです。

一村様のおじいさんが、まだ子供のころ(明治時代初期のこと)、家で一人の初老の男をお接待したそうです。
その男はお礼として赤い唐辛子の実を置いていきました。

あまりにも少量だったため、種を取って栽培することにしました。
その唐辛子は、普通のものよりも恐ろしく辛かったのです。

どこから来たものか?どこで獲れたものか?
この唐辛子のルーツは全く謎で、現在もその地域のみで栽培されています。

種を分けて頂き、晴れの国 岡山玉野で栽培いたしました。

もしかしたら、その旅人はタイムスリップしてきた空海?
つーことないか!

とにかく、辛い!!

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激辛地獄唐辛子のルーツ

四国お遍路
激辛地獄唐辛子
の謎に迫る

初老の男は何処から来て何処へ帰ったのだろう。
1400km、歩いて50日かかる巡礼だ。
おおよそ明治の頃88ヶ所を巡礼することは至難の技だったことだろう。

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すげ笠に白衣(はくえ)
輪袈裟(ゆげさ)は正装を意味する
金剛杖には同行二人と書いてある。

そうなのだ、自分一人ではないのだ
弘法大師(空海)と一緒に巡礼しているのだ。
「南無大師遍照金剛」

もし道半ばで死んだならこの衣装のまま埋葬しその上には金剛杖をさしてください。
死装束を着て、墓標を持って歩くのである、決死の覚悟の現れである。

弘法大師に会うことは絶対無理だ、しかし少しでも近づきたい…
皆そう思っている。
自分自身、親族が安らかでありますように、願掛けの為、自分を見直す為、不治の病の為目的は皆違う。

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1番札所から回ろうがどこから回ろうが明確なルールはない。
基本は順番に回るのがセオリーのようだ。
​​​​​​​なぜなら過去に歩いた人のルートがあるからだ。

87番札所長尾寺を目指し88番札所大窪寺をつなぐルートに西植田はない。

なぜ男は西植田でお接待をしてもらったのだろうか?
最終88番を目の前にしてなぜ寄り道をしたのだろうか?
そしてなぜ、あんなに辛い唐辛子を持っていたのだろうか?

マイケル山口はかく推理する。
男は徳島1番札所霊山寺から高知、愛媛を回り香川に入ったはずだ。
なぜなら、50日の巡礼のためには幾らかの金銭、食べ物を持って歩いたはずだ。
しかし西植田についた時にはほぼ資金はなかった。
だから少しの唐辛子をお札において行った、巡礼の後半だったのだろう。

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75番札所 善通寺についた頃、資金も食う物もなかったのだ、物々交換しながら、食べ物をもらいながら凌いだはずだ。

その地域で唐辛子を手に入れたと推理する。
そこは讃岐本鷹という唐辛子の産地なのだ。
男は特殊な唐辛子をもらったのだ。
(異質の味のため処分する突然変異種のはねもの)

男は87番長尾寺を終えた時思ったはずだ。
​​​​​​​「やっと、ここまできた、あとひとつだ。苦しかった巡礼はもう少しだ!」
苦しみや目的よりももっと感動に震えた事だろう。
男は巡礼の途中で聞いた話がある、香川県には農村歌舞伎なるものがある思い出した男はいきたくて、いきたくて抑えられなかった、
今でいうフェスだ!その当時、庶民の唯一の娯楽なのだ。
最後の88番大窪寺の前に「歌舞伎が見たい」そう思っても仕方のないことだ。
だから、その道中の西植田でお接待をいただいたのだ。

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88番大窪寺での結願後
男は納経帳に思い出を懐に抱えて故郷へ帰ったのだろう。
長かった苦しい歩きのお遍路88ヶ所は想像もつなかった喜びと感動であり、生きる意味を噛みしめた事だろう。

男は何処からきて何処へ帰ったのだろうか?

その答えは同行した空海だけが知っている!

そして、時は流れて…
唐辛子農園は、12年目に突入です。
ご贔屓ありがとうございます。
6年前、1株だけ違った唐辛子がそだちました。
お尻を上に向けた唐辛子です。
図鑑で調べると讃岐本鷹とそっくりです。(メンデルの遺伝の法則先祖帰りか?)
もしかしたら激辛唐辛子のご先祖様は讃岐本鷹かもしれない。